Jan 5, 2016

公共のために:Krzysztof Wodiczko回顧展

 昨年の夏は、日本では集団的自衛権を中心とした安全保障に関わる法整備が世間一般で大きな話題になり、中東で発生した難民の大規模な移動が世界に衝撃を与え、いまだに収拾がついていないどころか泥沼化している。両者ともに「戦争」に関わる問題である。「安全のために、国のために」— 私たちの生存を保証してくれるかのような言葉によって、大規模な(国家による大量殺人である)「戦争」は正当化され続けてきている。そして、「戦争」はいつでもその社会の末端にいる人々をも犠牲にする。第二次世界大戦終戦後70年という節目の昨年、多くの戦争体験者や退役軍人の話を目にしたし、慰安婦問題が無理矢理解決に追い込まれているように、傷つき社会に切り捨てられた人々が無数存在してきていることも事実として存在している。

  これらの問題と長年向き合ってきたアーティストの一人に、クシシュトフ・ヴォディチコ(Krzysztof Wodiczko)がいる。1943年、第二次世界大戦の最中にポーランドで生まれたヴォディチコは、彼自身もカナダやアメリカに移り住みながら、社会における少数者、例えば戦争の被害者、退役軍人、移民、ホームレスなど、社会の中で耐え難い状況に置かれていながら積極的な発言権を持たない人々とともにプロジェクトを行ってきている。石油利権のために戦争を起こしている資本家や、戦争兵器に関わる機関を断罪するような作品も発表してきており、近年は、世界各地で公共空間にあるモニュメントや建築物に、一般的で通俗的な歴史に隠された真実や抑圧された人々の声を投影することによって、その歴史を問い直すようなプロジェクトが有名である。
  日本においては美術の分野で平和に貢献した作家に与えられるヒロシマ賞を1998年に受賞し、原爆ドームに原爆被害者や遺族が語ったさいの手の様子を投影して、まるで原爆ドームが彼らの歴史を語っているかのようなプロジェクトを行っている。また、東日本大震災直後の横浜トリエンナーレの連携プログラムの一つとして、横浜国立大学の室井尚氏と共同でシンポジウム「アートと戦争」を開催したり、被災地の人々のインタビューのプロジェクションなどを行ったりしてきている。

  昨年の夏、ポーランドのウッチ(Łódź)にある美術館(Muzeum Sztuki)で開催されていた《On Behalf of the Public Domain》は、1969年から2014年までのヴォディチコの活動を網羅的に紹介した回顧展である。美術館やギャラリーではない「公共」に開かれた場所で数々のプロジェクトを行ってきているため、展示されているもののほとんどはプロジェクトの計画案や記録である。そうとはいえ、SF的な装置型作品やギャラリーで発表された初期作品を含めて、彼がいかに「公共」と向かい合ってきたかが感じ取ることができるような展覧会であった。ポリティカル・アート、パブリック・プロジェクションの先駆けとして大規模なプロジェクを行ってきているヴォディチコの回顧展と考えると、ある程度はスペクタクルなものを想像して会場に向かったのだが、会場内に入るとその想像は簡単に裏切られた。あまり広いとはいえない会場は、プロジェクトの記録である数々の映像から流れてくる言語も状況も異なった人々の声で溢れていたのである。


 展覧会は年代別に並べられていたわけではないが、ゆるやかに4つのセクションに分かれていた。初期作品を紹介する『The 1970’s』は、戦後ポーランドの共産主義下で検閲や監視が行われるなど、自由が制限されていた環境そのものに反応して作られた作品群である。光を感知することで音を採取するセンサーを両手に装着し、その音を聞くためのヘッドホンを両耳に着け、まるで瞼で視界を閉ざすことができるように聞く音をコントロールする《Personal Instrument》(1969年)や、長方形の乗物の上で行ったり戻ったりしても、乗り物自体は前進しかしない《Vehicle》(1972年)などである。実際に公共空間で行われた本人によるパフォーマンスは、あからさまに政治的な内容は含まなかったとしても、常に監視され「話されたことよりも、話されなかったことを考えなければならない」状況下で、共産主義システムの一方方向にのみ進む全体的な雰囲気に対する抵抗でもあったのである。  
  興味深かったのは、最初期の作品の中にはヴォディチコ自身の自画像を使った《Autoportrait》(1973年)などギャラリー内で発表された作品も再現されていたことである。正面を向いたヴォディチコが部屋の奥から見つめ、上下を向いた像をバックに、部屋の中央にはギリシャ神話のナルキッソスが水面を覗き込むように、ヴォディチコの下を向いた頭が床に置かれた鏡に反射している。無数のヴォディチコの顔に囲まれながら、鑑賞者は中央の鏡を覗き込むようにして自分の顔も一緒に覗き込むことになる。同様に鏡を使用した通路の作品《Passages》(1972年)は、複数の鏡の反射によって自身の後ろ姿が目の前の鏡に映り、自分で自分を追いかけるような作品である。アーティストとして活動し始めた当初からある環境や状況に対してパブッリックな場所で活動していたとはいえ、自身と公共の関係性を、後の作品と比べるとより内省的な領域で行っていたことがわかる。鏡は自己同一化のための道具であると同時に、客観的に自分自身との距離を保つための方法でもある。

Autoportrait(1973年)
Passages(1972年)
  そして、ヴォディチコが長年取り組むことになるのが、80年代以降、具体的な事柄に言及した90以上にもおよぶ屋外のプロジェクションである。『Art of the Public Domain(公共のアート)』はその記録のセクションである。フーコーが社会によって個人が規律化されていくようすを述べたように、学校、会社、病院といった公共建築物や戦争、英雄の彫像といったメモリアルは無意識的に人々に秩序や規律、そして集合的な記憶を植え付けるものとして存在している。ヴォディチコのプロジェクションは、その建築物やモニュメントに個人的な経験を語らせることで巨大な「特定の身体」として擬人化させ、その建築が隠し持つ政治性や、それによって疎外された人々の存在に対するクリティカルな意識を明るみにだすのである。
 私は実際にその場で行われているプロジェクションを見たことがないが、記録を見ていて面白いと思ったのは、プロジェクションであるがゆえ、そのプロジェクションが切り替わる時やプロジェクションが消えた直後の真っ暗な暗闇、つまり「沈黙」が際立つ点である。普段は沈黙していて当たり前の建築物だが、一度語り始めた建築が持つ「沈黙」は以前の沈黙とは異なる。ヴォディチコは「民主主義」や「責任」というものに頻繁に言及するが、その「沈黙」を受け取るのはその声を聞いた私たちである。抑圧された声や、建築やシステムに隠された現実に対する「沈黙」を再びやぶるのは、多くの人々の声による活発な議論でなくてはならない。これらのプロジェクトは、限られた時間であったとしても、建築や都市空間に介入して本来の意味からずらすことが重要なのである。ヴォディチコは本来的には民主主義が持ちえる社会に潜在する声を拾い上げて対話へと導こうとするものである(それは多数決で決めるのが平等であるという民主主義とは違う)。


 『Xenologies(異人観)』や『Disarming Memory(心の武装解除)』のセクションで紹介されていた数々の装置もまた、このような声を拾い顕在化させるための道具である。ホームレスのための簡易シェルター《Homeless Vehicle》(1988年)や退役軍隊の社会復帰を助けるためのヘルメット《Veteran helmet》、引きこもりの子どものために作られた後ろを向きながら会話をすることができる《Disarmer》(2009年)など、日常生活の中ではSF的で異質に見える装置は、実際に彼らが公共の場で人々と会話をする機会をもたらす。しかし、それが本質的にその問題を解決して物事を良い方向に進ませるわけではない。むしろそれよりも、彼らの存在が社会に実在していることを仰々しい装置を通して明るみにだし、その異質な物体を通すことで可能になった対話と声を伝えるのである。
  また、近年は特に、過去の戦争賛美をするために作られたパリの凱旋門を、戦争廃絶するための研究センターに変えるようにと提案している。数々の「戦争」という歴史によって現在の共同体が形づくられているように、「戦争」は直接的に「公共」という概念と結びついている。ヴォディチコはその解体とそれに代わる平和構築のためのメモリアルの必要性を説いているのである。

Veteran helmet
Homeless Vehicle(1988年)

 回顧展のタイトルが「公共のために」が付けられているように、彼の活動は概念的にも実質的にも「公共」という概念と切り離すことができない。しかし、それは直接的に公共空間に存在する様々な問題を政治的に解決するようなものではない。むしろそのシステムや文明によって凝り固まってしまった公共空間に風穴を開けるような取り組みである。もちろん、このような直接的に公共と関わる作品以外にも、プロパガンダから美術史、広告写真にわたる視覚文化を垂直、水平、斜線に分類して分析した作品など、視覚文化とその人々への支配/影響についても重要な比重を占めているのもヴォディチコの長年の活動の特徴であろう。
  同時に、彼の活動は他人の声なくしては成り立たない。それは彼が引用するレヴィナスの「他人に対する責任」のように、私たちの主体はすでに他者に責任を負った主体として成立しているからである。会場が多くの声で溢れかえっていたように、回顧展という形で彼の活動を通して改めて強く感じたのは、民主主義の基本である無数の人々の声に辛抱強く耳を傾けるということの重要性である。それは生きている人の声だけとは限らない。パブリック・プロジェクションや装置作品も含めると、彼は間違いなく多くの人々の声に耳を傾け、対話をしてきている。会場に展示された記録を全部見ようとするのでさえ長くて途中で断念しようと感じてしまうくらいだから、実際に耳を傾けるのは相当に忍耐が必要であろう(いま、国民や憲法を容易に無視し、あるいは自らと違う意見を持つ者を即座に悪と決めるよう状況が日本に限らず世界中で生まれているが、徹底的に欠けているのはそのような辛抱強さのようにも感じる)。
  戦後70年を迎え、ちょうど終戦記念日が過ぎた夏の真っ盛りの中、半世紀にわたってこれらの問題に取り組み続けたアーティストと多くの人の声に触れたのはその意味でとても貴重な機会であった。


Vehicle(1972年)のパフォーマンスの様子

 *随分と昔に書いてそのままほったらかしにしてあった文章だけれど、室井氏が3月にヴォディチコを日本に呼ぶときいたので、少し直した文章です。そもそも、この展覧会をはるばる観に行こうと決めたのも、日本で何らかのプロジェクトを計画していると聞いたからででした。横浜の時に、ヴォディチコは日本の靖国神社という建築物について問題提起をしていたけれど、2011年から4年経ったいま、多くのアーティストが各々の形で震災によって明るみに出てきた日本の社会に向き合い始めています。そのような状況も含めて、長年「公共」と向き合ってきたアーティストが再び日本でプロジェクトをすることは多くの者にとって意義深い議論を巻き起こすようなものになるのではないでしょうか。

No comments:

Post a Comment