May 10, 2015

世界をまとうこと:新聞女《Peace Road》in Paris

  長い冬を終えたヨーロッパの春は特別に明るい。パリ第8大学で新聞女のパフォーマンス《Peace Road / 平和の道2015》が行われた4月の中旬は春を通り越して初夏のような陽気であった。この大学で『Création littéraire(現代的文学創作)』の授業を担当している大久保美紀さんから連絡があったのは2月のまだまだ寒い時期であったが、3月末にスケ ジュールの合間をぬってパリに滞在することができることがわかり、急遽駆けつけることを決めたのだった。

  「新聞女」こと西澤みゆきは、具体美術協会(以降、「具体」と表記する)設立メンバーのひとりであった嶋本昭三の弟子であり、彼との出会いによって芸術活動を始めている。「新聞女」という名前が示しているように、彼女のパフォーマンスは「新聞」を使って行われる。新聞はつなぎ合わされドレスやジャケットとなり、そこには花形に切り取られた新聞や新聞で作られたレースが付けられ、時には傘やカバン、ハイヒールなどにも新聞が切り貼りされる。新聞でできたそれらのコスチュームを身にまとうことで、新聞女は大量の新聞の渦の中に多くの観客を巻き込んでいくのである。「具体」が世界的に評価・研究されていくなか で、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で亡き師匠へのオマージュとして大きなドレスの裾で観客を包み込んだパフォーマンス(2013年)をした様子を写 真で見たことは記憶に新しい。

Photo: Christine Butler © Solomon R. Guggenheim Foundation, New York

 「具体」の創始者吉原治良が言ったという「誰もやったことのないことをやれ」という方針のもと、嶋本の周りには常に多くの弟子たちが集まってきており、西澤もその一人であった。嶋本の有名な活動の一つである、女性の裸に墨汁を塗って和紙の上に「魚拓」のように痕跡をつけていくシリーズ《女拓(にょたく)》 のモデルの一人でもあったように、西澤は嶋本作品の中で自発的なコラボレーターとしてパフォーマンスに関わっていたのである。西澤によると、嶋本を通して出会ったパフォーマンスや芸術活動は、ひっこみ思案であった西澤を明るい性格へと変え、家庭環境などによって長年縛られてきた精神的な苦しみや困難からも解放させてくれるものでもあったという。「新聞女」としての活動もそれらの活動から生まれたのであり、新聞をドレスにして身にまとうことは彼女にとっての精神的な解放であるとともに、その場にいる者たちとの積極的なコミュニケーションの場を作り出す方法なのである。
  しかし、彼女の実践は決して彼女自身とそれに関わる者の芸術療法的な側面のみにとどまるものではなく、むしろ彼女自身の身体を突き抜けた活動であると思われる。一般的に、身体を何かで装うこと、衣服やファッションとは自分と外の世界を結ぶ「第二の皮膚」として、人間の身体の拡張/あるいは自身の内面の表現として捉えられている。また、奇抜な格好をしたりマンガやアニメのコスプレイヤーとして演じたりすることは、人々の注目を浴びながら、殻に閉じこもった自分を社会へと開いていく契機ともなり得るだろう。しかし、新聞女の「新聞」を着るということは、その新聞に書かれた様々なコンテキストを身にまとうことであり、それは自分ではないもの、自分の外側で動いている世界を着るということである。社会に対して自身を開こうとしていくのではなく、むしろ自分の外部の世界そのものであることの希求である。
  大学でファッションを学び、デザイナーとして十数年アパレルの世界で働いた経験を持つ西澤は、彼女なりの方法で新聞をドレスに仕立てたり、花をあしらったりするが、それは外部のコンテキストを自分で身にまとうために自分なりの折り合いを付ける作業なのであって彼女の自己表現の実現ではない。日々量産され人々に情報を与えながらも、そのまま捨てられていくか、あるいはリサイクルされていくしかない新聞の運命と同じように、彼女はそのドレスをまとうことによってその場限りのパフォーマンスを出現させるが、それと同 時に、そこで使用された新聞は残されることなくゴミ(あるいはリサイクル)になっていく。
  観客がパフォーマンスにおいて新聞女を見るということは、西澤みゆきという一人の人間の身体を見ることであると同時に、彼女の身体の上で重なりあった「世界」の外部性を見ることでもある。一つの身体は個人の領域から世界中で起こっている様々な事故や事件を纏わざるをえない匿名で集合的な身体へと変わり、それは楽しいパフォーマンスであると同時に、否応なしに新聞に書かれたコンテキストの中に身をおかざるをえないような不安を引き起こすのである。パフォーマ ンス中に新聞の記事がふと目に飛び込んでくる瞬間に、あるいはパフォーマンスが終わった時に散乱する新聞に目を落とす時に、そのようなことを意識せざるをえないのだ。

  しかし、今回の『ピース・ロード サン・ドニ(フランス)ヴァージョン』において、新聞女は新聞をまとわなかったのである。パリ第8大学の一つの教室で開始された講演/パフォーマンスは大久保さんによる「具体」と新聞女の講義から始まった。教室のスクリーンの前には椅子が置かれ、その椅子に新聞を身にまとう前の新聞女が座っているのでスク リーンの下中央部分は新聞女によって隠れてしまっていた。そのスクリーンと新聞女には吉原治良の「具体美術宣言」(1954年)に始まり、嶋本昭三の瓶投 げや村上三郎の紙破り、田中敦子の電気服のパフォーマンス、そして新聞女の活動の様子がスライドとして映し出されていく。それはまるで、新聞女が具体から 現在に至るまでの流れを、光のシャワーを浴びながら文字通りに受け止めているようだった。
  講義の途中で、おもむろに上着を脱いでタンクトップ姿になった新聞女は、今回は新聞ではなくトイレットペーパーを身体中に巻きつけ始めた(実は私も巻きつ けるのを手伝ったのだが)。そのいくつものトイレットペーパーは新聞女の身体から学生へと手渡され、教室中がトイレットペーパーを介して新聞女と結びつけ られていく。下半身には、いらなくなった白いプリントの裏で作られたスカートが付けられ、白いドレスとなる。顔面にもトイレットペーパーがまんべんなく巻かれていき、目の上まで全て巻いたために新聞女の顔は完全に見えなくなっていた。頭には同じくトイレットペーパーで作られた大きくて可憐な花のヘッドドレスが付けられ、白い紙のドレスを身にまとった新聞女はアノニマスな存在となり、本当に白いスクリーンそのものとなったのである。

  今回のパフォーマンス《Peace Road》は、「9.11」のテロをきっかけに作られた平和への祈りのために始められた長期的プロジェクトである。最初に行われた神戸では、新聞紙の中の「9.11」に関する記事だけを選び、神戸の元町駅から西元町駅までの1.2kmの道のりを一本の新聞の道として繋いだという。一瞬のうちに平和であった日常が崩れ去っていく中で、その悲劇を伝える新聞による一本の道を、平和の象徴として世界中を駆け巡るメタファーとして機能させようとしているのである。このプロジェクトは、国内だけでなくヴェネツィアのサンマルコ広場でもゲリラパフォーマンスとして行われている。
  今回のパリといえば、2015年の始まりとともに起きた「Charlie Hebdo」の襲撃事件が思い起こされる。そしてそれ以降「表現の自由」や「テロへの脅威」といった多くの議論がいまなお世界中で続けられている。おそらくその事件以前は出入りが自由であった大学構内に入るには、すべての出入口で待ち受けているセキュリティのチェックを受ける必要があり、それは未だにパリが不穏な危険性をはらんだ街であるかのように感じられた。もちろん、その危険性はパリにとどまらず、どこにいてもその可能性があるという現状があるのだが。
  パフォーマンスのために、日本から持ち込まれた大量の新聞は学生たちによって教室から廊下へとつなぎ合わされ、新聞によるPeace roadは外へ外へと広がっていく。その上を白い紙でできたドレスを着た盲目になった新聞女が手を引かれながら歩くのである。まるで人々の苦行を背負った聖女のように、教室の外部に道が広がっていくにつれて、彼女は多くの者の目にさらされていき、学生たちはその道を必死に前へ前へと繋げていくのである。もちろん物理的に新聞の量は限られており、道は大学構内の階段半ばで終わった。しかし、それはもちろん終わりではない。
  新聞ではなく白い紙とトイレットペーパーを使った今回のパフォーマンスは、自身がスクリーンになるという目的ゆえのことかもしれないが、新聞女の実践がよ り抽象的な身体へと変貌していたようにも思われた。私たちを取り巻く情報がますます増えていくなかで、私たちは後を絶たない事件や暴力に絶望しているだろうか? それともその多さゆえに、麻痺して忘却へと向かっているのだろうか? 彼女の用いる新聞が報道の自由やその規制という問題と絡み合いながらも、彼女はその情報を身にまとい、あるいはそれを映し出す媒体として、まったく違った文脈を持つ者たちとの経験の共有を求め続けるのである。それは、おびただしい情報の中で身をすくめがちな私たちをときほぐしながら、私たちが「世界」そのものであることを思い出させるのである。

 




今回の新聞女のパフォーマンスを企画した大久保さんのブログ(salon de mimi)には新聞女について詳しく、そして愛情たっぷりに書かれているので是非読んでほしい。ちなみに、日本記号学会叢書セミオトポス9『着ること/脱ぐことの記号論』では大久保さんの「新聞女論」が掲載されているとのこと。






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