Mar 28, 2015

ダンスから現代美術へ : Tino Sehgal最後の劇場作品

 ティノ・セーガル(Tino Sehgal)は「モノ」としての作品を残さず、芸術における物質性の否定を徹底したアーティストとして有名である。彼の作品はパフォーマンスとして位置づけられているが、セーガルからその空間の中でどのように行為をするのか指示を与えられた美術館やギャラリーの関係者、ダンサー、あるいは一般人(セーガルはこうした行為をする者を「通訳者(interpreter)」と呼ぶ)は、美術館やギャラリーにおいて簡単なダンスや動作をすることもあれば、鑑賞者に向かって警句的な言葉を投げかけるといったことを行う。したがって、それはパフォーマンス作品ではあるのが、ある特殊な状況を作り出すという意味でパフォーマンスであって、必ずしもパフォーマンス行為の内容そのものが作品とは限らない。今でこそインターネットなどによってパフォーマンスの様子を写真で簡単に見ることが出来るが、無形で一時的なその様子を彼自身が記録してアーカイブとして形を変えて提出することは決してないし、基本的にはその場で行われた一過性の状況のみが作品として提示されるというのが彼の物質性否定の所以である。鑑賞者の記憶にだけ残るものとしてのみ作品は考えられており、コレクターへ作品を販売する際にも一切の物理的な契約書や領収書は存在せず、その作品・パフォーマンスの内容、さらに契約内容までも口頭で伝えられるという。
 前回のヴェニス・ビエンナーレ、ドクメンタへの参加や、グッゲンハイム美術館やテイト美術館での個展などによって近年さらに注目浴びているアーティストの一人であるが、視覚芸術の文脈において美術館やギャラリーで作品を発表する以前には、ダンサー、振付師として活動をしていた。ジェローム・ベルと同様にフランスの実験的な振付をするカンパニーに所属していたセーガルは、美術館ではなく劇場にこだわるジェローム・ベルとは対照的に[注1]、2000年以降は劇場作品をつくらず美術館やギャラリーにおいてダン・グラハム(Dan Graham)やブルース・ナウマン(Bruce Nauman)といった過去のアーティストを引用した作品の発表を始めている。 
 このような視覚芸術としての活動に移行する前の、ダンサー・振付師としての最後の劇場作品となるのが『(Untitled)(2000年初演)』である。この作品は一人の男性が様々なダンス様式を辿ることで20世紀のダンスの歴史を概観するというものであり、初演ではセーガル自身のダンスによって演じられたという。私が観たウィーンのダンスシアターでの公演は3部に分かれており、スタジオ、野外、劇場のホールと場所とを変えながら各々の会場で違ったダンサー(MUSÉE DE LA DANSE のBoris Charmatz、Andrew Hardwidge、Frank Willens)が同じダンスを「通訳者」として演じるというものであった。私はダンスの専門家ではないのでダンス作品としての内容についてはここでは触れないが、約50分程度の作品の流れを簡単に説明すると以下のようなものである。
 「この作品は20世紀のための21分間である・・・」というような説明が入り、裸の男性が登場する。男性は20世紀のバレエだったりモダンダンスであったり、日常的な行為であったり様々なダンス様式の一部をやってみせる。それらのダンスに繋がりは見られず、また音楽もないため、ひたすらダンサーの息遣いとダンスの動作音だけを聞くことになる。途中で簡単な動作の反復になると、ダンサーは「ダンスをしていると考えることは出来ないけれど、動いている時は考えることが出来る」などと観客に向かって話しかける。あるいは、その場所に応じてアドリブとして「目をつぶっている人がいるけれど、ダンス公演中の昼寝は最高だよね」など、とコミュニケーションを取ろうとする。その部分が終わると再びダンスを始め、一度舞台から出て行く。帰ってくると、もう一度ダンスを始めるが、「2017年にやろうと思っている作品があるんだけれど、いまここでその一部をみせるよ」といって、ダンスではなく瞬きをする。そして最後に、男性器を押さえて放尿しながら「Je suis fontaine.(私は噴水である。)」という、ある意味では観客の反感を買うような形で終わる。(実際の公演では反感を買うことはなかったように思われる。)
 1部のスタジオの空間はあまり大きくなく、普通のダンス練習室と同様に片面は鏡張りであった。パイプ椅子が並べられ客席が作られており、時間になると客が入って舞台が始まるという全く普通のダンス公演と同じ流れであったが、スタジオでダンスを観るという体験はいくら公演として行われていたとしても、ダンサーの練習最中、あるいはよく言えばリハーサルを見ているような傍観者の気分であった。ある程度ダンサーの動作に魅力を感じるものの、ホールで見るようなスペクタクルな要素はなく、多少退屈に感じる部分もあったが、それだけに、公演全体の1部として初めてダンスを観る者にとっては、最後のシーンは印象的である。
 観客は事前に1部と3部の時間・場所だけが教えられているだけであって、2部はどこで行われるのか直前まで知らされていなかった。そのため、3部の会場入口で待っていたところ、他の観客から外でパフォーマンスが行われるという話を耳にして、ダンスシアターの外に皆で連れ立って移動した。会場のダンスシアターはミュージアムクォーターという複数の美術館やギャラリーが入った複合施設の中の一つであり、その施設のすぐ横には大きな道を挟んでオーストリアが誇る美術史美術館や自然史博物館がある。2部はそのようなミュージアムクォーターと美術史美術館の間に位置する公共空間で行われた。美術館があるといっても、そこでは毎日のように時間を持て余したパンクスタイルの若者がお酒を持ち寄り、音楽をかけながら騒いでいるし、すぐ隣の道はスーパーや洋服店など賑やかなショッピング施設が揃っている。そのような環境の中で、ダンサーはその場所に来ると全裸になって同様にダンスを始める。(後日談として聞いた話では、ダンスシアターのエントランスホールで行う予定であったが、ちょうどその期間は別の催物が行われておりそれが不可能であったため、完全なる野外でやることをセーガル自身が決定したという。)
 ダンサーは彼の背景にパンクたちが位置するように立ち、そのパンクたちの反対側にはダンサーを半円で取り囲むように観客たちが集まって立っていた。突然の全裸のダンスにパンクたちはもちろん茶々を入れるわけだが、黙々とダンスを続けるダンサーをみて途中で諦めてグループの輪に戻ってく者もいれば、中にはビールを片手に最後まで黙ってみている若者もいた。見渡しが良い場所なので通りすがりの人も集まってきて、多くの者が見守る中でその公演は行われた。芸術国オーストリアであっても芸術として全裸で公共空間にいることは人目を引くし、ヨーロッパの豊富な美術品を収めてある美術館に囲まれながら、その一方では職のない若者や商業施設といった圧倒的な落差は否応なしに私たちにその現実を突きつけるのである。そのような環境の中で、最初はダンス公演を観に来ている観客(いうなればブルジョワ的な存在)と、それ以外の人たちとの間には見えない壁のようなものがあったように感じていたが、ダンサーはその観客の輪に介入したり、パンクの集団に近づいたりと、その空間にあった境界線を次第に崩していくようであった。それはとても見事であったと思うし、その決まり切った問いを払拭し、もう一度身体と身体とが向き合う関係へと導いていたように感じた。
 スタジオ、野外というイレギュラーな公演を経て、最後はダンス公演にとって一番の自然である劇場の大ホールである。ホールとはスタジオのように自由で親密な空間でもなく、野外のような豊かな文脈もない言わば外部とは遮断され芸術のためだけの場所である。それは、20世紀のダンスを振り返る上で、外部に晒された身体をもう一度そのダンスを芸術の殿堂の中に引き戻すものである。3人の中でも一番鍛え上げられた身体をもったダンサーは、まさにシアター作品に見合うように一番大胆に、そしてスペクタクルに演じていた。

 全裸でのギョッとする結末を抜きにすれば、このストーリーもなく繋がりもよく把握できない内容のダンスをただ淡々と観るのは私にとっては大変つらいものであると思っていたが(現にスタジオの公演では寝そうであった)、異なった状況で観るという一連の流れによって、同じ踊りでありながらも場所とその文脈の影響によってその見え方が全く違ってくるのがあまりにも明らかであると同時に、それは必然的なものであった。
 スタジオ、野外と続き3回目に劇場でダンスを観ることは決して劇場という装置の否定や解体だけを狙っているわけではないだろう。今回の公演のプレスリリースでも述べられているが、この作品は20世紀のダンスの歴史を扱っており、それはつまりダンスという芸術が保存された"museum of dance(ダンスの美術館)"である。しかし、ダンスというものが物ではなく「身体の動作」によって構成されていることを考えれば、それは決して建物のなかにモノとして回収されるような類のものではなく、ダンスを行う身体そのものによってのみしか保存するができない。そう考えると、一回一回の公演が「ダンスの美術館」として機能し、それは必然的にダンサーの身体にしか宿らない。しかしその身体は、スタジオだろうが、公衆の面前だろうが、そして劇場の中であろうがダンスの歴史を物語ながらも、現実的に身体が存在する場所によって容易に変容するものでもあることを思い出させる。
 私はセーガルの近年の作品の中ではドクメンタでの暗闇の中でパフォーマーが歌いながら踊る作品(最初は何も見えないが、だんだんと目がなれていって、何が起こっているのかがわかるようになる)と、ヴェニス・ビエンナーレでの美術館での突発的にパフォーマーが踊る(記憶によると、口笛を吹きながら数人が絡み合って動いていた)作品しか直接的に体験したことがないが、パフォーマンスの良し悪しではなく、私がいた環境とそのパフォーマンスが起こっていた状況が作品の記憶として残している。確かにそこには物性は何もないように思えるし、その記憶を残すのも現実的にその場にいた「身体」でなければならない。視覚芸術において、彫刻だろうが絵画だろうが、あるいは近年ますます増えていく写真や映像だろうが、実際に展覧会に行くことはもちろん必須なことではあるが、彼の作品はよりそれを必須事項として要求し、その時にしか出会えない一期一会のタイプの作品である。それは、現在の芸術が未だに展覧会における見る・見られる関係性という鑑賞形態に留まっていることについて疑問を投げかけるのである。
 しかし一方で、もし彼が野外だけでこの作品を発表していたらどうだろうか? 美術館やギャラリーにこだわるからこそ彼は記録を必要としていないとも言えるのであり、その意味ではコンテンポラリーダンスや現代美術に博識な観客が想定されていることが見え隠れしているのである。


*注1ジェローム・ベル インタビュー(ARTiT)
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/la5b2JEv346XqVoQyk0f
*作品についての参考ページ
http://krt-festival.pl/programm/untitled-tino-sehgal/?lang=en#


==公演情報===
Tino Sehgal / MUSÉE DE LA DANSE
『(Untitled)』 (2000) 、ソロダンスの3つのヴァリエーション
日時:2015年3月16日・17日、18時
会場: tanzquartier wien(detail
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